金谷から見た大井川を挟んだ島田市と富士山
金谷から見た大井川を挟んだ島田市と富士山

大井大明神

大井神社旧社跡:川根本町大沢地区
大井神社旧社跡:川根本町大沢地区

大井大明神は川根本町大沢から流されてきた神様で本通り5丁目の架十薬局・杉村家の先祖が川岸でご神体を拾い上げたと言い伝えています。現在でも神社の宮司とこの大沢地区の世話人の井林氏は親交があるがこの場所も過疎化が急激に進み後継者がいないのが事実です。2011年11月に島田大祭史研究会メンバーでこの地に出向き調査並びに井林氏にお話を聞かせていただきました。大井神社は大井川流域に70社以上存在するため島田に資料が多く存在してもどれが大元の社などとははっきりしていませんが日本三代実録貞観7年(865年)の当社への正五位下の神階授与の記述があることから、それ以前には成立していたとみられます。現在、島田大井神社は神社本庁の別表神社とされ、水の神・弥都波能売神、土の神・波迩夜須比売神、太陽の神・天照大神を祀り、古来から町民・旅人の信仰を集めてきました。


慶長の大洪水

大井神社旧拝殿(江戸~明治)
大井神社旧拝殿(江戸~明治)

慶長9年(1604年)秋、未曾有の大洪水によって島田の街の大半が流され、大井神社も深刻な被害に会いました。(このとき大井神社の石の鳥居が海辺まで流されたと伝えられています。)そこで島田の街は東北の位置にある現在の元島田に11年間ほど避難します。

大井神社もすぐ隣の野田山にお遷しされます。(今でもその時のご社地にあたる静岡大学付属島田中学校の裏山の東の方には、大井の段、大段、小段、お手水ヶ谷(おちょうずがや)などの地名が残っているそうです。)街がようやく復興した元和元年(1615年)、大井神社は今の御仮屋町のお旅所の地にお遷しされます。

 

御社地の移転

現在の大井神社拝殿
現在の大井神社拝殿

それから約70年後、江戸幕府の参勤交代制度、川止め制度等の恩恵により、島田の街並は急激に大きくなり、大井神社より西に(大井川寄りへ)民家が広がり、自分たちの生活汚水が氏神様の方へ流れるのは申し訳ないと言う氏子からの請願により、元禄2年(1689年)現在の御社地にお遷しされました。
ここにはすでに竃(こう)神社、須賀(すが)神社、祈年(きねん)神社、春日(かすが)神社(延宝年中1673~81年勧請)等がお祀りされており、鹿島踊りも奉納されていました。

神輿渡行のはじまり

お旅所
お旅所

さらに元禄8年(1695年)から祭式が整い元のご社地へ御神輿のお渡りが行われることになり、御仮屋町に旭町民が建設した神社の元の社・お旅所へ里帰りをします。その警護に大名行列や清める鹿島や盛り上げる屋台が役2キロに渡り列を成し、さらに関係者・出演者を合わせれば2000人はいますから平成22年大祭の総観光客数は64万人なので島田は人で溢れかえります(笑)また元禄当時の代官がお祭りの時だけは無礼講を許した為、このお渡りの警護の行列がやがて10万石の格式を持つ大名行列へと発展しました。ちなみに翌年の元禄9年に徳川幕府は江戸保護の為に大井川に架橋を禁止し川越し制度を設けました。

「帯まつり」 の名の由来

元禄8年以降の初期の大奴(駿河記)
元禄8年以降の初期の大奴(駿河記)

島田では当時外から嫁いできた者は大井神社に安産祈願と氏子になった報告をした後、晴着衣装のまま町を歩かなければならないしきたりがありました。しかし、それでは見世物同様だと周囲からの反対の声が上がると当時大井神社の神輿を共に歩き警護をしていた大奴の原型「仮装の山伏」の太刀に架けさせてもらい代わりに披露したのが始まりです。現在は木太刀ですが写真でもあるように当初は真剣でした。

また帯まつりの名が付いたのは明治8年が最初とされ、祭りも「大井神社大祭」が本名であります。『駿河記』にみえる大奴の装束は、「全躰身に半纏を着し6尺許なる木の大小を帯び 下緒は婦女の大帯を2筋下げたり 下帯どんすの類 角力取のごとしなり 頭は67分許に月代の毛をはやし 雨鬚を出し茶煎髪に結ひ作り髭をなす ももりに楊枝をさす 首に女子のしごきをまとひて振衣の如し 腰に印籠をつけ後にふり出しのきせる筒をさげ女扇をさす」。と書かれています。

 

奇祭のいわれと応接廻り&準備

第七街青年本部にて第五街青年口上
第七街青年本部にて第五街青年口上

明確ではありませんが何故奇祭と言われるか、祭りには「街(ガイ)」と呼ばれる町単位で参加します。一街から五街までが屋台、六街が鹿島踊り、七街が大名行列を出します。「街」というのは、1つの国のようなものです。初日と2日目は、1つの街の中に、同時に2つの街の催しものがいてはいけない、というしきたりを守らなければなりません。例えば、六街の鹿島踊りが三街にいる間、他の街の屋台や行列は一切、三街に入ることができないのです。各街の境目には、国境線ともいえる境界線を白線で引いています。街の催しが出入りする際は、同時に入って、同時に出るということをしなければなりません。街への出入りは何時何分という細かいタイムスケジュールが事前に組まれています。そこで、列車のような定時運行厳守のために走り回るのが、各街の青年本部の「伝令係」と「応接係」です。「伝令係」は通信連絡役、「応接係」は外交官です。例えば、一街の屋台がニ街から三街に入る際には、まず、一街の伝令係が、三街の青年本部に行って「今から一街の応接係が参ります」と伝えます。次に一街の「応接係」が三街の青年本部へ行き、「スケジュール通りに入ります」と伝え、三街の青年本部が「わかりました」と許可を出します。そこではじめて、一街の屋台は三街に入ることがでるのです。逆に一街屋台が出た二街青年本部へは同じ手順で「出ました応接」を行います。祭りでは、各街の伝令係、応接係が飛び回っています。この他に例のない祭運営などが奇祭と言われる1つであると思います。

毎晩遅くまでスケジュールの確認をし合う青年
毎晩遅くまでスケジュールの確認をし合う青年

 

数ヶ月前から祭りは始まっているのです、準備の段階も含めすべてが祭りです。

9月に入ると各街は青年本部を設けます、その本部をすべて廻り自街の自己紹介をするのが伝統の応接廻りといいます。各街の青年が時間と同時に一斉に動き出し正確な時間が決められているのでそれまでにすべての本部を挨拶しながら廻り、戻って来なくてはなりません。夜の島田の商店街を提灯に火を灯し、青年が大声で挨拶しながら走り廻る。島田の人達もこれでいよいよ始まるなぁと実感する行事ではないでしょうか、一見の価値ありです!

 

※応接廻りは9月に2回行われます。

小さな歌舞伎役者たち

上踊り:連獅子
上踊り:連獅子

5台の屋台では10才くらいまでの子どもたちが、唄にあわせて踊ります。大祭が始まる数ヶ月も前から師匠を招き稽古をします、昔から裕福な家庭の子供が選ばれ、舞踊など経験のない子が屋台舞台で踊ります。子どもたちの衣装は、歌舞伎などの舞台を製作する松竹さんから借りています。衣装替えをするとき、糸を一度に抜くと上に羽織っている着物がサッと落ちて、2曲目用の着物がバッと出てくる。歌舞伎座でやっているような引き抜きも、お見せしています。5つの屋台すべてが松竹さんからではないのですが、どの屋台でも引き抜きができるような本格衣装をお借りしています。


人間国宝も登場!! 長唄まつり

人間国宝の芳村五郎治
人間国宝の芳村五郎治

唄うのは長唄の各流派の家元です。一街では吉住小三郎さん、二街では長唄左門会、三街では芳村伊十郎さん、四街では長唄東音会が、五街では松島庄十郎さんがそれぞれ来られていますね。なぜ一街に吉住派の師匠が来てくださるようになったかというと、江戸時代、島田の宿に当時の吉住小三郎さんがいらした際、お金が底をついて困り、相談したところ、一街のある家が用立てたそうなんです。それが縁で、一街の屋台に吉住小三郎さんが出演、以降3年ごとに毎回、吉住派の師匠が来てくれるようになったのです。江戸時代、芸人さんたちは江戸から京都まで、東海道を行ったり来たりしていたわけですが、大井川で川止めにあってしまうことがしばしばありました。 
何日も留まると、お金もなくなり暇ですから、地元の人に芸を教える事もあったそうです。そんなことから、島田に長唄文化が根付いて祭りに取り入れられたのではないかと思います。1992年の第100回大祭の時には、人間国宝の芳村五郎治さんが唄いに来てくださいました。歩道の脇に座りながら、長唄家元の声を間近で聞けるのも島田大祭の醍醐味です。各町の屋台の長唄を聴き比べていただきたいですね。


県指定無形文化財 鹿島踊り

鹿島踊り:三番叟
鹿島踊り:三番叟
鹿島踊は茨城県鹿島市から始まり、次第に伊豆半島西岸まで伝わったとされる。しかし島田鹿島踊との関係は定かではない。茨城から伊豆にかけての鹿島踊りと島田のそれとは衣装も異なれば、踊り方も異なる。島田においては1673年、蔓延していた疫病の除去祈願のため市内にある春日神社に奉納されたのが始まり。春日神社は大井川氾濫を鎮護する祭神を祀る大井神社境内にある。数十年後にはその大井神社を中心に行なわれる日本三奇祭の一つ・島田大祭の行事としても披露されるようになった。加えて毎年6月第1日曜日に開催される春日神社例祭での奉納が、主な舞台となっている。
 踊りの隊列は町内の小学生から大学生までで形成される。扇と鈴をもち、木綿襷(ゆうだすき)を掛けて踊る「三番叟(さんばそう)」、お鏡(ひしゃくとも呼ばれる)をもって踊る「お鏡」が各1名。竹ささらと棒ささらで疫病を祓う「ささら」、太鼓を打って踊る「つつみ」が各3名の計8名を一組とし、2組で行進する。演奏隊である楽人は大人が担い、三番叟が踊り始めてから演奏する。保存会にとって、隊列を組む小学生や中学生に対しての指導・伝承が活動の根幹だ。彼らに島田鹿島踊を教わった児童が中学生、高校生になっても行事に参加し、やがて保存会会員として子どもたちを見守る側となり、伝統が継承されている。茨城鹿島踊とのつながりなど研究を続けている。歴史の解明につながれば、市民の関心は更に高まるだろう。300年以上の伝統を誇る島田鹿島踊。1957年、県指定無形民俗文化財登録と同時に保存会が発足し、現在は牧野敦さんが会長を務めています。

衣装揃い清払式 (入場映像)

神社前に参列する各街青年
神社前に参列する各街青年

3日間の祭り前日の朝7時30分、『衣裳揃え』といって全町の祭り青年衆が法被姿で正装して大井神社拝殿前に一同に集合し、お祓(はら)いを受けます。その数約600人。各町内ごと颯爽と整列して歩いて来るので、すでに6時ごろには家を出ていることになります。
…ということは、5時起き!この『衣裳揃え』をいれると4日間、最終日のお渡りが終わってすべての余興が収まる夜10時まで、本通り(大井神社よりお旅所まで)を中心に付近の町は文字通り祭り一色になります。青年衆は朝5時起きの夜10時以降(多分12時以降)帰宅が4日間も続くのです。


 

衣装揃いが始まる前に、各街の青年が神社に集います。

神社に来る順番は‥

新組

元宮

七街 
(拝殿へ行く途中の南参道に留まり、

以後の街を木遣り歌で迎えます。)

六街

五街

四街

三街

二街

壱街

そしてあらためて

七街。

拝殿の前に全青年が整列しました。(写真)

大井神社大祭衣装揃清祓式が始まります。


2007年 1月1日 開設

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静岡県指定無形民俗文化財
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